創業以来の110年を振り返って

現在は

 「食卓に健康をお届けします」をモットーに、有機農産物を使用しためん類や小麦粉の製造販売を中心に、海外で有機農産物と認められた各種食品の輸入等を事業としています。
 最近は麺類の製造も有機食品の販売も過当競争的な様相を感じていますが、私どもは独自の価値観を会社の運営に取り込んでいます。
 それは「お役に立つ」という基本理念です。当社の食品をご利用いただく方のお役に立ちたいという思いから各種の商品の開発、製造等の商品展開が図られています。
 国産有機小麦を使用した即席ラーメンやパン粉等のオーガニック食品の数々、小麦粉を使用しないパン用ミックス粉を初めとしたグルテンフリー食品、動物性原材料を使用しないベジタリアン食品シリーズ等々。他社では手掛けにくい市場で消費者の方々へのお役立ち食品を提供するのが当社のなすべきことと考えています。
 時代の流れの中で「お役に立つ」という共通した理念が今日まで会社が存続できた基と考えています。
 そしてこれからも「お役に立つ」を商品作りの中で忘れることなく、他社では出来ないが、当社なら出来るという商品開発を進めていく所存です。
 今後ともご指導とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

歴史を振り返りますと

 明治43年(1910年)にうどん等のめん類製造を始めて以来、皆様方に支えられ幾多の困難を乗り越えて110年の年月を迎える事ができました。まさにお客様の方々による様々なご支援のお蔭であると深く感謝申しあげます。
 一世紀を超える仕事の歴史を振り返りますと、創業の地(岐阜県山県郡保戸島村側島=現在は岐阜県関市側島)で初代の桜井捨吉が電気の無い地域でしたが、足踏み式や手回し式の製麺機を購入してうどんの製造を始めました。この時代は近在の農家さんの小麦をお預かりして、うどんや冷麦への加工を中心にしていました。
 大正2年(1913年)には捨吉の弟である与三吉(現社長の祖父)が仕事を継承する事となりました。
 大正8年(1919年)に岐阜県武儀郡関町萬屋町(現在は関市本町8丁目)へ移転しました。この頃は全国各地で産業振興のために開かれる博覧会にうどんや冷麦等の乾麺を出品し、数々の栄誉を頂く事が出来、店頭販売が順調に出来るようになりました。
 太平洋戦争の時代は国策による企業合同によって、近在の同業者と共同で食糧供給への協力を推進しました。
 戦後は乾麺や生めんを製造して、近郊の八百屋さん等への卸販売を中心に行っていましたが、昭和36年(1961年)になって、2代目の桜井与三吉は食べ物に合成添加物を使用する事についての危険性を知ったことにより、今後は麺の製造に際して食品添加物は使用しないという一大転換をして、無漂白うどん等のめん類の製造を開始しました。当時はすべての小麦粉が漂白されていましたから、無漂白小麦粉の製造を製粉会社に特別に作って頂くお願いをする事も大変な事でした。この時に麺に人工着色料を使用していた「中華そば」や松茸の香りのする人工香料を使用した「松茸うどん」の製造を中止しました(この松茸うどんは良く売れました)。

 この仕事の転換点であった昭和40年8月に桜井与三吉が死去したために3代目として桜井芳幸が仕事を引き継ぎました。この頃、当社の麺類は無漂白のためにお店で他社品と共に陳列しますと、色が悪い(くすんだ白色)ということで売れ行きが大幅にダウンし、このままの売れ具合では生活が成り立たず、麺類製造を廃業する以外にないと思い始めた時に、合成甘味料チクロの発がん性の疑いやお豆腐に使用されていた防腐剤のAF2の発がん性物質への疑い等が報道されて、消費者の方が添加物を使用しない食品を求められる時代となり、当社品への関心を持っていただき生き残る事ができたのです。 

 昭和47年(1972年)には国内初の無添加ラーメン「純正ラーメン」の発売を開始しました。この即席麺は無添加食品の即席めんが欲しいという消費者のご要望にかなったもので、皆様が待っていましたと言っていただけるヒット商品となり、一時はコピー商品が出るほどの人気商品でした。おかげさまで品質の向上や改良を重ねつつ今日まで継続して製造・販売しているロングラン商品です。

 カーソン女史の「沈黙の春」や有吉佐和子さんの「複合汚染」が新聞の連載や単行本で読まれていたこの頃(昭和50年)が自然食品の販売をする小売店さんが出来始めた時代です。

 昭和52年(1977年)には美濃加茂市加茂野町(現在の所在地)に移転をしました。丁度この年にフランスで当方の純正ラーメンを食べて頂いていた方が、東京の商社の方にお豆腐用のニガリと共に純正ラーメンをフランスへ出荷してほしいという話があって、これをきっかけとして即席ラーメンや乾麺等の輸出が始まったわけです。
海外への輸出はフランスを皮切りにして、その後は現地仕様に変更しつつオランダ、イギリス、米国、オーストラリア等へ広がっていきました。平成2年(1990年)頃になると海外のお客様は無添加食品よりはオーガニック食品を目指してほしいとの声をいただき、地元や北海道の農家さんにお願いして有機栽培の小麦やお米、そばを確保するに至ったのです。

 平成6年(1994年)には円相場が急上昇し、1米ドルが100円以下になった頃、即席ラーメンの海外への輸出は注文が来なくなってしまいました。即席ラーメンの輸出を始めた時は1米ドルが270円だったのです。輸出に際しては円通貨による販売でしたから当方に為替による差損は無かったものの、現地での小売価格が当初は1食1.2米ドル程度であったのが4ドルを超えてはとても現地では売れるという具合にはいきません。やむなく、当方の即席ラーメンを取り扱っていただいていたサンフランシスコの会社の商品を輸入して国内で卸売をしたのが輸入業務の始まりです。

 平成10年(1998年)から3ヶ年は米国の有機認証団体OGBAにより、麺類の製造を中心にして原料の畑から製粉、麺類への加工、出荷等の各段階での有機性の確保についてトレース検査を受け、米国を中心にオーガニック食品として輸出をしました。その後、 平成14年(2002年)からは日本の有機認証団体アイシーエス日本(現在は商号変更によりビューローベリタス)による同様の検査を受け、現在はエコサートによる有機の検査を受けています。
 平成17年(2005年)、岩手県一関市藤沢町に子会社の桜井農場によって約60,000㎡の有機農場を取得しました。ここでは全面積を有機栽培によって小麦、大麦、そば、大豆等を輪作営農しています。同地域にあります他の有機圃場産の小麦等も入手して有機即席めん、有機小麦粉や有機パン粉等に使用しています。
 平成22年(2010年)には世界的な食品基準であるISO22000を取得して、安心と安全を一層追求する食品作りの仕組みを整え、毎年レベルアップを重ねてきています。
 平成26年(2014年) 岐阜県内の若者が選ぶ魅力的な会社100選の一つに選んでいただき、一層魅力のある会社を目指さなければと思うに至りました。

これからは

 創業以来110年という過去を振り返ってみますと、その時々の時代の流れの中で生かされてきたという事を改めて感じます。お役に立てる食品作りがお客様の支持を頂け、今日まで続けてこれましたことに深く感謝申しあげますと共に、「食卓に健康をお届けします」のモットーを忘れることなく喜んでいただける食品作りに邁進いたします。

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